日本のセックスワーク(性風俗・売買春)の歴史

1.古代〜江戸時代

 日本で初めてのセックス・ワーカーは、神に仕え、その言葉を伝える巫女(みこ)であったとされています。巫女は、神と意思の疎通をするための歌や踊りを行っていましたが、男性への接待の一環として、性交を行うこともありました。当時の男性は、巫女との性交に、神との交流の意味を見出していたとされています。この時は、性交に対して、金銭が支払われることはありませんでした。

 時代がすすむにつれて、巫女が神社を離れ、諸国を旅しながら、宿場や港で歌や踊りを披露するようになり、その過程で、役人や旅人を相手に、性も売るようになります。こうした巫女から、「遊女」「遊行女婦(うかれめ)」と呼ばれる、遊芸の専門家集団が登場します。

 遊女が行っていたのは、現代のような単なる「売春」ではありません。遊女は、性行為を歌や踊りのような遊芸の域にまで高め、あくまで遊芸の一環、付属物として、性交を行いました。

 こうした艶やかな遊女の姿は、奈良時代の万葉集にも詠まれています。平安時代の「更級日記」では、著者の菅原孝標女が遊女のことを「彼女たちの美しい歌は、空に澄み渡るようだ」と讃えています。すなわち、日本では、性に関わる女性を「汚れた存在」と見なす文化はありませんでした。

 鎌倉〜室町時代になると、海陸の交通の発達に伴って、宿場や港街の遊女も、その数を増していきます。安土桃山時代、豊臣秀吉は、市中の私娼を取り締まり、風俗を統制することを目的として、遊女の働く遊女屋を、特定の地域に集め、「遊郭」を作ります。これが、公営の売春地帯のはじまりです。日本で最初に遊郭が置かれた場所は、1585年の大阪です。

 その後、各地に遊郭が作られるようになり、江戸幕府成立後の1617年、江戸の日本橋人形町付近に吉原遊郭が誕生します。吉原遊郭の中でも、位の高い遊女は「花魁(おいらん)」と呼ばれ、美人画や浮世絵のモデルになるなど、庶民の憧れの的になりました。花魁になるためには教養や芸事が必要とされ、花魁候補の女子は、幼少のころから、古典、書道、茶道、和歌、三味線、囲碁などを教え込まれました。

 一見華やかな遊女の世界ですが、そこで働く女性の大半は、貧しい農村から、わずかな金額で「奉公人」として売られてきた娘でした。江戸時代は実質的な人身売買が行われていたため、貧しい親の借金の肩代わりに、遊郭に売られる幼女が後を絶ちませんでした。

 いったん遊女になると、連日連夜、不特定多数の男との性行為を強要され、しかも、契約期間=年季が明けるまで、辞めることは許されません。年期は「最長10年・27歳まで」とされていましたが、借金が支払いきれないために、それ以上の期間、働かなければならない遊女も大勢いました。

 実際に健康な体で年季明けを迎える遊女は少なく、年期が明けないうちに、性病や過労、伝染病や栄養失調で命を落とす遊女が大半でした。こうした遊女の悲惨な境遇は、「苦界(くがい)」と呼ばれました。


2.明治〜大正

 1872年(明治5年)、ペルー船籍のマリア・ルス号が、清国から奴隷として買い入れた清国人約200人を乗せて、横浜港に停泊しました。その際、脱走した清国人によって、マリア・ルス号が奴隷運搬船であることが分かり、日本政府は人道の観点から、マリア・ルス号を出港停止処分にして、清国人を全員下船、解放します。

 一方、ペルー側はこれを不服とし、「日本でも、芸娼婦という形で人身売買が行われているにもかかわらず、他国の奴隷契約を禁止するのは不当である」と非難し、国際的にも問題になります。これを、「マリア・ルス号事件」といいます。

 日本はこの批判を受け、同年10月に「芸娼妓解放令」を出します。この法律は、強制的な年季奉公の廃止など、公娼制度を大規模に制限する法令でしたが、準備期間が全くないまま、唐突に発せられたこともあって、解放された女性の就労支援、収入面での補償は行われませんでした。そのため、解放されたものの生活が立ち行かず、再び遊郭に戻る女性も多く、実際に女性がおかれている状態はあまり変わらなかった、とされています。

 芸娼妓解放令以降は、「貸座敷営業」という形で、女性が、大家から特定の店や部屋などの場所を借りて、その場所を使って自分の意思で売春を行う、という形式に変化しました。しかし、実態は、それまでの遊郭とほとんど変わらなかったようです。貸座敷営業は警察によって管理され、「公娼制度」として機能しました。

 1924年(大正13年)の時点で、全国の貸座敷営業指定地域は545か所、そこで働く娼妓は、約5万2千人いたとされています。


3.昭和〜戦時中

 昭和の戦争時代は、個人よりも、国家や軍隊が優先される時代でした。こうした中で、恋愛や性に関する問題は隅に押しやられ、兵士の性欲処理機関としての慰安所、慰安婦がクローズアップされるようになります。

 慰安婦とは、戦場や軍隊の基地に置いて、軍人を相手に性的なサービスを行う女性の総称です。慰安婦は、慰安所と呼ばれる施設で、有償で兵士や将校への性交の相手を行いました。サービスの際には、軍によって支給された避妊具を使用しました。ちなみに、陸軍が陣中用品として配布したコンドームの数は、年間3210万個、1日平均8万8000個に上ったそうです。

 慰安所は、戦線の拡大に伴い、中国、フィリピン、インドネシア、タイ、ビルマ、ニューギニア、香港、マカオなど、各地に設置されました。慰安婦を求める兵士の数と比較して、慰安婦の人数は不足気味であり、慰安婦は、場合によっては、一日十人以上の兵士の性の相手をしなければならなかったこともありました。慰安婦の仕事で高額のお金を稼ぐ女性もいましたが、前借金の支払いや業者の仲介料に消えることも多かったようです。

 慰安婦における強制連行の有無や、それに対する軍の関与の有無については、政治的な論争になっています。


 「セックスワーク1.0」(玄人中心の売春サービス)の時代

4.戦後〜高度経済成長期(1945年〜1975年)

●1945年:RAA(recreation and amusement association:特殊慰安婦設備協会)の設立

 戦後の売春の歴史は、国家の一大事業として開始されました。敗戦からわずか3日後の1945年8月18日、警視庁は、アメリカの進駐軍兵士のための慰安施設=RAA(recreation and amusement association:特殊慰安婦設備協会)の設立協議を、花柳界の代表者と開始します。すなわち、国策として、占領軍兵士向けの売春宿の設立を計画したのです。

 設立の理由は、政府首脳が、日本が進駐軍によって占領されるにあたり、兵士によって日本の一般婦女子の貞操が汚されることを恐れたため、とされています。

 RAAでは、当初は水商売の女性を雇う予定でしたが、思うように集まりませんでした。そのため、「日本女性の防波堤たれ!」というスローガンが公告され、公募に応じてきた一般女性たちが、RAAの人員として集められました。「新日本女性求む、宿舎、衣服、食料すべて支給」などの広告が東京・銀座に設置し、新聞広告でも一般女性の募集が行われました。

 他に生活費を稼ぐ手段無い戦争未亡人や子女が多かった時代背景もあり、第一回の募集では、1,300人あまりの女性が、RAAに登録しました。東京都内だけでも30ヶ所以上、全国では最盛期では7万人にのぼる女性が、進駐軍兵士相手の売春行為に従事していたと見られています。

 しかし、設立から半年足らずで、RAAは閉鎖に追い込まれます。進駐軍兵士の家族やキリスト教牧師の反対、性病の蔓延などを理由にして、GHQによる立ち入り禁止措置が下され、強制的に閉鎖される結果となりました。特殊慰安施設は廃止されましたが、そこで働いていた女性たちの多くは、当時「パンパン」と呼ばれた街娼、水商売等に進んだと見られています。


●1946年 公娼制度の廃止と、合法売春=赤線・青線地帯の誕生

 GHQは、「デモクラシーの理念に反する」という理由で、日本政府に公娼制度の廃止を要求しました。その結果、公娼制度は廃止されましたが、その跡地での売春行為は、「自由恋愛の結果」として解釈され、取り締まりの対象にはなりませんでした。売春行為は「社会の必要悪」とされ、特定の地域に限定して囲い込んだ上で、その地域内での営業を集団的に認める、という政策がとられることになります。

 警察当局は、売春行為が行われている「特殊飲食店」に指定された特定地域を、地図上に赤線で囲って、区分しました。ここから、警察当局の黙認の下に売春が行われている地域を、「赤線地帯」と呼ぶようになります。特殊飲食店に指定されない非公認の売春地帯は青線で囲まれ、「青線地帯」と呼ばれるようになりました。

 こういった、戦後の「合法売春」が続いた期間は、わずか10年でした。国連への加盟のためには、売春の禁止が必要条件であったため、1956年5月、売春防止法が制定。1958年に施行されました。

 これに伴い売春は違法行為となり、赤線地帯で営業していた特殊飲食店は廃業になりました。当時、7万人から10万人近くいたとされる赤線女性たちの何割かは、「黒線」と呼ばれる暴力団による管理売春の世界に流入していったとされています。ちなみに、青線地帯は、警察による取り締まりをあまり受けないまま、営業を続けている店舗が多かったようです。

 売春防止法により、街角で売春行為を行う女性=街娼も、激減します。以降は、比較的安全に性サービスを提供することのできる(受けることのできる)場として、男性、女性ともに、売春行為を行わない性風俗店に集まるようになります。


●1950年代 ストリップが大衆娯楽として人気を集める

 戦後、女性が舞台の上で服を脱いでいく出し物=ストリップが、大衆娯楽として人気を集めました。ストリップ劇場では、幕間にコントが行われることも多く、渥美清や萩本欽一、ビートたけしなど、昭和を代表する喜劇人を数多く輩出する舞台にもなりました。初期のストリップでは、ストリッパーの女性は全裸にはならず、「バタフライ」と呼ばれる前張りを股間に貼り付けていました。


●1960年代 売春防止法により、非売春系の性サービス=性風俗が発展

 売春防止法によって売春が禁止された結果、性産業では、業界全体の生き残りをかけて、売春行為を行わずに男性の性的欲求を満たす業態が、次々に開発・実践されていきました。

 その中で、もっとも成功を収めたのが、「トルコ風呂」(現代では、ソープランドと名称変更)という業態です。個室内に浴槽とベッドが設置されており、男性利用客は女性に身体を洗ってもらいながら、浴槽内やベッド上で、性的なサービスを受ける、という内容です。

 トルコ風呂の登場当初は、警察の監視もあって、サービス内容は、女性の手による射精サービスどまりでした。その後、高級店の登場や、「泡踊り」(女性が全裸になって身体中に石鹸をつけ、男性の体に自分の身体をこすりつけて洗うテクニック)などのサービスが開発され、最終的には、女性器への挿入=売春行為までもが、警察によって黙認されるようになります。

 現行の法律上は、売春防止法によって、売春は禁止されています。しかし、ソープランドでは、「経営者は、女性(位置づけとしては自営業者)に、営業の場として、個室付きの浴場を貸しているだけであり、個室の中で何が行われているかに関しては、関知しないし、責任も負わない」という曖昧な理由で、売春行為は黙認されています。すなわち、「売春は違法行為であるが、ソープランド内での売春に限ってはOK」という、二重基準が存在しているのです。

 トルコ風呂(ソープランド)と並んで発展した業態が、「ピンクサロン」(通称ピンサロ)です。薄暗い個室のあるサロンで、女性がタッチサービスや、手・口による射精サービスを提供する内容で、ソープランドよりも利用料金の安い、庶民の娯楽として普及しました。

 競争が激化する中で、女性が全裸でサービスする店舗が登場したり、「本サロ」と呼ばれる、本番=売春行為を行うサロンが登場し、利用客を集めました。本サロは、当然警察による摘発を受けましたが、埼玉県の西川口などのように黙認される地域もあり、そうした地域は「低料金で本番のできるエリア」として人気を集め、地域経済の振興にも寄与しました。ピンサロの世界では、警察の規制が強まると本サロからピンサロに戻り、規制が緩まると再び本サロを始める、というイタチごっこが繰り返されました。

 1964年、東京オリンピックの開催に先駆けて、民間人の海外渡航が解禁されました。これに伴って、海外からの往来も自由になり、「ジャパゆきさん」と呼ばれるタイやフィリピン、中南米の女性が、売春の個人営業や、ソープランドでの勤務を始めるようになります。


●1970年代:トルコ風呂全盛期

 1970年代に入ると、各家庭に自家用車が普及し始めます。それに伴い、都市圏から離れた地域での性風俗産業が活発化します。1971年、滋賀県大津市の雄琴温泉にて、トルコ風呂が営業を開始します。

 当初は、「繁華街でもなく、交通の便もよくない温泉街では、客が来ないのでは」という声が多かったのですが、いざ営業を開始してみると、京都や大阪、北陸、岐阜や名古屋からも、男性客が車で押し寄せる結果になりました。2年後には、雄琴のトルコ風呂は37件に増加し、月間11万人もの利用客の集まる、一大トルコ街へと変貌。地価上昇により、地元農家の土地成金が続出し、雄琴全体が大きく発展しました。

 1972年、札幌冬季オリンピックの開催を機に、札幌市の繁華街・すすきのの性風俗店も、店舗数・サービス内容ともに、大きく発展しました。

 また同年、沖縄が日本に返還されます。アメリカの統治下であった沖縄では、売春防止法が適用されなかったので、戦前からの遊郭は戦後もそのまま存在し、米兵相手の売春サービスが、島の経済を潤しました。

 返還を前にして、1970年に、売春防止法が公布・施行されました。法務局の推定によると、当時の沖縄全島の売春婦は、7,385名。沖縄において、いかに売春が大きな産業であったかが伺えます。このように、性風俗は、その時代の社会情勢、そして地元の経済発展と、密接に結びついていたのです。

 1975年の段階で、全国のトルコ風呂は1239店舗、そこで働くトルコ嬢は、16,833名にのぼりました。法律的には、売春は変わらず違法行為であり、売春防止法違反で検挙される人は後を絶ちませんでしたが、トルコ風呂は官民接待の場でも利用され、社会の中で、良くも悪くも「黙認」されていくようになります。

 ソープランドの発展に合わせて、ストリップの世界でも、「全スト(全裸になるストリップ)」が盛んになり、全国各地に広がっていきました。舞台の上で行われることも次第にエスカレートし、舞台上でお客と女性がセックスをする「まな板ショー」が全国に広がり、馬などの動物と女性がセックスする「獣姦ショー」までも行われるようになりました。

 「セックスワーク2.0」(素人の参入した性風俗サービス)の時代

5.1976年〜1980年代・・・ノーパン喫茶の登場、「素人女性」の参入

 70年代の後半から80年代初頭にかけて、「ノーパン喫茶」という業態が、一世を風靡します。最盛期には、日本全国で800件以上のノーパン喫茶が存在したとみられています。

 当初は、喫茶店のウェイトレスが、文字通りパンティをはかないで接客する、というだけのサービスでした。男性客は、ウェイトレスがテーブルにカップを置こうとして前屈みになる=スカートの中身が見えるのを、ひたすら待つ、という微笑ましいものでした。しかし、店舗の増加に伴い、競争も激しくなっていき、床を鏡張りにする店、外人のウェイトレスを集める店、トップレスで接客させる店など、様々な工夫が凝らされるようになりました。

 「ノーパンになるだけ」という、特殊な技術や覚悟が無くても働けるノーパン喫茶の登場により、女性が性風俗の世界に入る際のハードルが、ぐっと低くなりました。その結果として、「素人」と呼ばれていた普通の女子学生やOLが、軽い気持ちで、性風俗の世界に参入してくるようになります。

 70年代以降のラブホテルやモーテル(モーターホテルの略:車での乗り入れが可能なので、こう呼ばれました)の増加、性風俗の世界への素人の参入増加に伴い、「団地妻売春」「ルンルン売春」と呼ばれる、素人の女性による、悲壮感や罪悪感の薄い売春行為が、マスコミを騒がせるようになりました。ホテルで行われる売春(トルコ風呂サービス)は、略して「ホテトル」と呼ばれます。

 「結婚するまでは処女」という旧来型の女性の性意識は、70年代を通じて大きく変化し、結婚するまでに、複数の男性と恋愛をしたりセックスをしたりすることが当たり前になったこともあって、セックスへのハードルも低くなります。

 日本社会では、昔から女性を、「性を売る玄人」と、「性を売らない素人」の2種類に分けていました。公娼制度が作られたのは、「性を売らない素人」の女性の貞操を守るため、という目的があったからです。しかし、80年代に入って、この玄人と素人の区別は、一気に曖昧になります。

 ヌードの女の子が座っている小部屋を覗くことのできる「覗き部屋」、サラリーマンに対して、普通の女子学生やOLを愛人として斡旋する「愛人バンク」など、素人が比較的参入しやすい業態が、次々に登場するようになります。

 ノーパン喫茶が進化する形で生まれ、以降の性風俗の世界を変える業態になったのが、「ファッションヘルス」です。ノーパン喫茶で興奮した男性を、女性が個室内に誘導し、射精まで導く、というスタイルが変化し、はじめから、個室内でのサービス(裸でのふれあい〜手による射精まで)が行われるようになります。ソープランドのようなプロの女性ではない、初々しい素人の女性と、裸で、かつ(ソープと比較して)低料金で遊べる、という設定が人気を博し、一大ブームを巻き起こします。

 風俗の世界のアイドル=「フードル」という現象も、このファッションヘルスから生まれました。この時期、性風俗店を紹介する風俗雑誌が次々に創刊され、ファッションヘルスで働く女の子が「フードル」として顔出しをして、誌面を賑わすようになりました。そうした流れの中で、「生活苦に陥った女性が、生きるために、やむをえず自分の身体を売る」といった、これまでの悲壮感に満ちていた性風俗のイメージが、ファッションヘルスの登場によって、多少なりとも、明るいものに変化しました。

 ファッションヘルスを契機として、「本番行為を伴わない、性風俗サービス」の業態が、次々と誕生していきます。射精だけでなく、全身への刺激とマッサージを行う「性感マッサージ」、性感マッサージとファッションヘルスの内容をミックスし、全裸の女性が、口や手を使ったマッサージをしてくれる「性感ヘルス」、制服やナース服、スクール水着などの様々なコスチュームでのイメージプレイを楽しむ「イメクラ」、アジアの女性が、それぞれの出身国の文化に応じたマッサージをしてくれる「韓国エステ」や「中国エステ」など、多くの業態が生まれ、多くの男性ファンを獲得しました。それに伴って、本番行為は可能だが、利用料金が高額であるソープランドの人気は、徐々に低下していきます。

 1985年、こうした新しい業態の性風俗の増加に伴い、風営法が改正・施行され、規制が強化されます。この改正によって、ファッションヘルスが公安委員会の営業届出の対象業種になり、ノーパン喫茶は姿を消します。また、ストリップ劇場も激減し、ストリップという業態自体が、以後衰退の道をたどることになります。


6.1990年〜2000年代・・・無店舗型性風俗の登場、店舗型の衰退

 90年代以降、青少年が犯罪に巻き込まれることを防止する目的=「青少年の健全育成にふさわしい環境の確保」という名目で、繁華街にある店舗型の性風俗店への規制が強まります。

 現行の法律体制では、新規に店舗型の性風俗店を出店・開業することは、全国の大半の地域で、事実上、ほぼ不可能になっています。ソープランドをはじめ、1985年の風営法改正以前に届出を出していたファッションヘルスのみが、既得権として、店舗型での営業を認められています。

 1999年4月、改正風営法の施行に伴い、無店舗派遣型の性風俗サービスが、合法化されます。女性をホテルや客の自宅に派遣して、ファッションヘルスと同様のサービス(本番行為無し)を行う業態として、「デリバリーヘルス」(デリヘル)と呼ばれるようになりました。

 無店舗派遣型の性風俗が合法化された背景には、店舗型の性風俗店を無店舗型に移行させることで、「青少年の健全育成にとって有害な存在である性風俗店を、社会の目につかない場所(無店舗)に追いやることによって、環境の浄化を図る」という目的がありました。

 しかし、無店舗型の性風俗店が普及するにつれて、かつての店舗型の性風俗店で行われていたような性病検査等の衛生管理、男性従業員による利用客への事前説明・注意、女性へのマナーやテクニックの講習、利用客の身元確認が行われなくなっています。

 また、サービスが客の自宅やホテルで行われるので、警察の取り締まりの手が及ばず、違法な本番行為も蔓延しています。それに伴って、性風俗業界全体の労働環境は、悪化の方向に向かっています。「青少年の健全育成」という価値観が守られる反面、性風俗の世界で働く女性個人の権利は、確実に侵害されていると言えるでしょう。


7.2010年代の性風俗業界の現状と課題


1.競争過剰による価格破壊の進行・・・「デリバリーヘルスは、稼げない仕事である」

 2010年現在、デリバリーヘルスは、完全な供給過剰状態にあります。警視庁の統計によると、デリバリーヘルスの店舗数自体は、毎年1万数千店の規模で、増え続けています。しかし、店舗数の増加にも関わらず、新規の利用客は増加せず、市場自体が縮小している、というのが現状です。

 インターネットのアダルトサイトでは、自宅に居ながら、自分の好きな時間に、自分の好みのスタイル・年齢・国籍の女性のヌードやセックス・シーンを、低コストで鑑賞することが可能です。パソコンの成人向けゲームを使用すれば、現実世界では絶対に味わうことのできない、特殊な舞台設定・物語設定で、自己のフェティシズムを満たす、カスタマイズされた性的興奮を味わうことが可能です。

 すなわち、インターネットの普及によって、多くの男性にとっては、自己の性的な欲求を、自分のフェティシズムに合わせて、低コスト、かつ低リスクで、簡単に満たすことが可能になっています。

 こうした状況下では、男性が、高コスト、かつ高リスクの性風俗店を利用する動機付けは、減少せざるをえません。ぼったくりのリスクや、自分の好みではない女性が出てくるリスク、性病のリスクを伴う性風俗店に、わざわざ高いお金を払って行くよりも、自宅でネットを使った方が、はるかにコストパフォーマンスが高い。そう考える人の増加によって、デリバリーヘルスは、新規の若い男性の利用客が減少し、昔からの中高年の常連が、利用客の大半を占める状況が続いています。

 また、最近の流行語にもなった、セックスに消極的な「草食系男子」の増加も、性風俗店の利用客減少の一因になっている、と考えられます。現在の若い世代の間では、「仲間同士の飲み会の後、酔った勢いで、性風俗に繰り出す」という、過去の体育会系的な風潮は、少なくなっています。

 性体験の乏しい若い男性にとって、単身で性風俗店に行くことには、大きな恐怖と不安が伴います。それを、同じサークル・部活の先輩や仲間の同伴、場合によっては、半ば強制的な後押しや援護によって克服?する、という流れがあったのですが、現在では、そういった文化は廃れつつあります。

 一般に、性体験の乏しい草食系男子は、「セックスがしたい」「性的欲求を満たしたい」というニーズよりも、「普通の女の子と、普通の恋愛がしたい」というニーズが強い場合が多いので、そもそも、高いコストを支払って性風俗を利用する、という選択肢自体が初めから存在しないことも多いです。

 こうした店舗数の過剰な増加、インターネットの普及に伴う、低コスト・低リスクの性欲解消手段の発展、草食系男子の増加に代表される、若年層男性の性的行動の消極化などの様々な理由が重なって、デリバリーヘルスは、業態として、構造的な不況に陥っています。

 需要が増えていないにも関わらず、供給が過剰になれば、必然的に値崩れ=「価格破壊」が起こります。

 かつて、多くの地域では、デリバリーヘルスはエリアごとに「価格協定」を設定し、全ての店舗が、決められた一定の金額の範囲内で価格を設定する、ということが行われていました。たとえば、「60分コースは、必ず15,000円以上に価格を設定しなければならない」などの取り決めを全ての店舗が行い、それを破った店舗は、地元の風俗情報誌やサイトに広告を出すことが禁止される、というものです。

 しかし、現在では、多くの地域でこの価格協定が撤廃され、自由競争の状態になっています。その結果として、価格破壊が生じ、店側の利益も、デリヘル嬢の取り分も少なくなっています。

 コンビニや街角で売られている風俗求人誌には、どの店の求人情報にも「日給3万5千円から!」という景気のいいコピーが躍っていますが、これは完全な誇張であり、大半のデリヘル嬢は、日給にすると1万〜2万程度、場合によっては、それ以下の金額しか稼ぐことができません。移動時間や待機時間、交通費等を考慮に入れれば、普通のアルバイトや派遣の仕事と、ほとんど変わりません。

 また、価格破壊によって客層も悪化し、マナーの悪い利用客、デリヘル嬢に対して違法な本番行為を要求する利用客も増えます。せっかく、自分の身体を売って働いていても、普通のアルバイト程度の金額しか儲からない上に、マナーの悪い利用客の相手をしなければならないため、デリヘル嬢は、身体的にも精神的にも疲労がたまり、短期間でやめてしまう。

 この「店舗数の過剰⇒価格破壊の進行⇒利益の減少・労働環境の悪化⇒デリヘル嬢が短期でやめる⇒さらなる利益の減少⇒広告宣伝+求人広告費用の負担増加⇒さらなる利益の減少・・・」という終わりなき利益減少の悪循環の螺旋、「デリヘル・スパイラル」のために、デリバリーヘルスは、完全に「稼げない仕事」になっています。


2.「日給3万5千円以上!」の嘘:あなたの裸に、商品価値は無い

 それにもかかわらず、これから性風俗の世界に入ろうとしている女性のほとんどは、「デリバリーヘルスは、稼げない仕事である」という事実を知りません。高収入求人情報誌にある「日給3万5千円以上!」という誇大広告を真に受けてしまい、「女性が、意を決して、裸になって働くのだから、誰もが平等に、高収入を稼げるのだ」と思い込んでしまいます。

 しかし、デリバリーヘルスは、普通のアルバイトのように、「この時間数勤務すれば、時給1,500円です」といった類の仕事ではなく、完全な歩合制=自分の指名客を確保し、サービスをした分しか、報酬をもらえない仕事です。客が1人もつかなければ、何時間待機していようが、1円にもなりません。

 また、地域にもよりますが、現在のデリバリーヘルスには、芸能人やモデル顔負けの容姿を持った18歳〜20歳の女性が、それこそ掃いて捨てるほどいます。そうした中では、一般レベルの容姿の女性、23歳以上の年齢の女性には、(人妻・熟女専門店を除けば)「商品価値」はほとんどありません。

 「私の裸には、商品価値があるはず!」と思い込んでデリヘル店に入ろうとする多くの女性は、すぐに、「自分の裸には、商品価値が無い」という冷徹な事実を、嫌というほど思い知らされることになります。

 まず、「私レベルの容姿であれば、すぐに採用になるはず」とあなどっていた面接では、ことごとく落とされ、自尊心が大いに傷つけられます。やっとのことで入店できたお店でも、他の綺麗な女性にどんどん指名客がついていく中、自分だけに全く客がつかない状態が続き、ただ時間だけが過ぎていく・・・。「日給3万5千円以上」などは夢の話で、交通費や待機時間を考えれば、収入はほとんどマイナス。

 ようやく指名客がついたと思えば、1週間以上お風呂に入っていないのでは、と思われるような不潔な男性。しかもマナーが悪く、フェラチオや本番行為を次々に要求してくる。気がつけば、他のデリヘル嬢の嫌がる質の悪い男性客を処理する「爆弾処理班」として扱われる日々。せっかく意を決してデリヘルで働こうと思ったのに、全くお金は稼げず、身体も自尊心も、ボロボロに傷つけられてしまう。

 これが、高収入求人情報誌に載っている「日給3万5千円以上!」の現実です。


3.出会い系サイトを利用した個人間の売買春の普及による「性風俗店」自体の存在意義の低下

 以上のように、一般女性にとって、デリヘルは「稼げない仕事」になっていますが、職業意識を持ったプロのセックス・ワーカーの女性にとっても、職場としての魅力は無くなりつつあります。

 現在は、「売春」というと、ソープランドにおける本番サービスというよりも、出会い系サイトを利用した、個人間での売買春、援助交際を指すことが多いです。女性が売春行為によって金銭を得ようとする場合、性風俗店に勤務するか、出会い系サイトを利用し、男性と売買春契約を結ぶか、のいずれかになります。

 女性にとって、出会い系サイトを利用した売春は、「自分の意思で売春の金額を決めることができ、その全額が自分の取り分になる」というメリットがある反面、「知らない男性とホテルに行くことで、暴行や性犯罪に巻き込まれるリスク」「性病をうつされるリスク」というデメリットがあります。

 以前は、性風俗店に勤務することは、「自分で料金を決めることができず、料金の何割かをお店にとられる」というデメリットはありましたが、「店側が広告宣伝をして、集客してくれる」「お店の側が、性病の検査、マナーの悪い客の排除、個人情報の保護(アリバイ会社作り)といった、女性の安全管理をしてくれる」「テクニックを教えてくれる」というメリットがありました。

 しかし、現在では、前節までで見てきたような「デリヘル・スパイラル」の進行に伴い、性風俗店自体の運営基盤、モラルが低下しています。「性風俗店に入れば、店側が広告宣伝をしてくれるので、お客さんがどんどんやってくる」というのは、過去の話です。性病の定期検査に関しても、一部の優良店を除き、全く行っていないところが大半です。

 マナーの悪い客の排除に関しても、「売上が上がるから」という理由で、身元確認を一切に行わずに、利用客として受け容れてしまう店は少なくありません。場合によっては、同じく売上の向上を理由に、女性と客との本番行為を黙認したり、推奨しているところさえもあります。

 テクニックの面に関しても、「女性が嫌がるから」「今の客は、プロっぽい女性よりも、素人くさい女性の方を好むから」といった理由で、現場に出る前の研修や講習を全く行っていない店が大半です。過去のソープランドには、各店に、新人にテクニックや接客マナー、性病の予防法を教える先輩の女性風俗嬢がいたのですが、ソープ自体の不況による人材の減少に伴い、現在では少なくなっています。

 すなわち、過去の性風俗店にあった「店側が広告宣伝をして、集客してくれる」「お店の側が、性病の検査、マナーの悪い客の排除、個人情報の保護(アリバイ会社作り)といった、女性の安全管理をしてくれる」「テクニックを教えてくれる」メリットが、現在では、ほとんど期待できなくなっているのです。そうなれば、お金を稼ぎたい女性は、必然的に、性風俗店ではなく、出会い系サイトでの売春に流れ込みます。

 そもそも、性風俗の世界では、「客は、お店ではなく女の子につく」という格言がある通り、利用客は、お店自体の魅力ではなく、そこで働いている風俗嬢個人の魅力にひかれて来店する場合がほとんどです。その風俗嬢が別の店に移れば、利用客も別の店に移ります。そう考えると、仮に性風俗店が無くなったとしても、出会い系サイトのような場があれば、女性も利用客も誰も困らない、と言えます。

 まとめると、2010年以降の性風俗業界の現状は、以下の通りです。


【2010年以降の性風俗業界の現状】

1.店舗数の過剰な増加、インターネットの普及に伴う、低コスト・低リスクの性欲解消手段の発展、草食系男子の増加に代表される、若年層男性の性的行動の消極化、出会い系サイトでの個人間の売買春、援助交際の普及などの様々な理由が重なって、デリバリーヘルスをはじめとする性風俗産業は、「稼げない仕事」になっている。

2.しかし、「稼げない仕事である」という認識が社会的に普及していないため、「風俗は稼げる」という誤った認識を持った女性が安易に風俗の世界に流入し、身体と自尊心をボロボロにしている。

3.過去の性風俗店にあった「店側が広告宣伝をして、集客してくれる」「お店の側が、性病の検査、マナーの悪い客の排除、個人情報の保護(アリバイ会社作り)といった、女性の安全管理をしてくれる」「テクニックを教えてくれる」メリットが、現在ではほとんど期待できなくなっている。


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